破局前夜が新生前夜となる
戦争前夜が解放前夜となる
その希な望みを、私たちは棄てない。

特定非営利活動法人 前夜
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06/9/12   English  Korean
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前夜のことば
◆創刊号

たったひとりの闘いへの呼びかけ

高和政(コウ・ファジョン)

 〈文化〉と〈抵抗〉。定義づけすること自体がきわめて難しいこの二つの語について考えているとき、アントニオ・グラムシが弟カルロに宛てた次のような言葉に出会った。

  私が確信しているのは、万事休するかと思われるときでも、落ち着いて再び仕事に着手し、はじめからやりなおさなければならないということです。いつも自分と自分自身の力だけを当てにし、誰からも何も期待しないようにし、失望したりしないようにすることです。そして、なしうる能力と条件だけを考え、自分の道を行くことが必要です。さあ、君も元気を出して、地方的・サルデーニャ的環境に押しつぶされず、取り巻く環境に打ち勝ち、しかも環境を軽蔑したり、優越感をもったりしないことです

    (「グラムシ・セレクション」片桐薫編訳、平凡社ライブラリー、二〇〇一年、二六九頁)

 ここでグラムシが述べているのは、まさに〈抵抗〉そのものだと思う。「万事休するかと思われるとき」であっても、「誰からも何も期待」せず、「自分と自分自身の力だけ」を頼りにして、「はじめからやりなおさなければならない」という覚悟を持つこと。このような覚悟をもち、「自分の道を行くこと」ということ。〈抵抗〉とは、たったひとりで「取り巻く環境」と闘っていかなければならない、非常に厳しいものなのだろう。

 そしてさらに重要なことは、このたったひとりでの闘い=〈抵抗〉を、グラムシが弟カルロに呼びかけているということだ。ここに、〈文化〉と〈抵抗〉という二つの語を結びつけて考えうる契機がある。ひとりであっても状況を切り開いていこうとする厳しい闘いを、他の者もまた別の場で闘っていると実感できるとするなら、そのとき、たったひとりでの闘いは、決して孤独なものではなくなる。そして、たったひとりでの闘いを、さまざまな場で・さまざまな形で、多くの者が闘うのならば、その〈抵抗〉が〈文化〉と呼ぶことができるのではないか。グラムシの呼びかけは、〈抵抗〉が〈文化〉となり、〈文化〉そのものが〈抵抗〉たりうる可能性の一端を示しているように思える。

 魯迅は「希望」について、「それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(竹内好訳)と語った。〈文化〉も、「地上の道のようなもの」なのだろう。もともとどこかに確固としたものがあるのではなく、そのように歩む人が多くなったとき、それを〈文化〉と名指すことが、あくまで事後的に、可能となるのだ。いまたった一人で闘う覚悟を持ち、過去の多くの〈抵抗〉をあとづけるとともに、ひとりでも多くの人々に呼びかけ、〈抵抗としての文化/文化としての抵抗〉を創造していくこと。季刊『前夜』はその拠点となることを目指している。

◆第2号
車中の会話

菊池恵介

 二〇〇二年三月二十五日午前八時、わずかな仮眠の後、目覚ましの音で起こされた。これから二日間、ユネスコが主催する国際人道法のシンポジウムに出かけなければならない。報告者として招聘されるのはこれが初めてである。遅刻するわけにはいかない。朦朧とした意識のまま、ジュネーブ行きの列車に飛び乗った。せめて一等席の座り心地はどんなものか堪能しようと座席を探しあてると、向かいの席には恰幅のいい、肌の浅黒い女性が座っていた。このひとが道中をともにするもう一人の報告者なのであろうか。

 ホームでは三人のアフリカ系女性が満面に笑みをたたえながら、さかんに彼女に向かってこぶしを突き上げている。列車が静かに滑りだすと、ようやく彼女はこちらを振り返り、「あなたが日本人の報告者ね」と朗らかに言った。彼女の名はロザ=アメリア・プリュメル。コロンビアに流れ着いたアフリカ黒人奴隷の末裔で、南米先住民との混血だという。そして、先ほどの三人組はこれからジュネーブに殴りこみにいく自分を激励に来た応援団なのだと得意そうに微笑んだ。私たちを待ち受けているのは、ただの学術会議ではない、奴隷制の法的責任を否認している「白人ども」との闘いだというのである。

 私たちが乗り合わせているのは、パリ=ジュネーブ間を結ぶ超特急列車の一等車両。まわりは彼女の連発する「白人ども」で満席だ。しかも、ヨーロッパの特権構造の中心部にいるエリート・ビジネスマンばかりである。だから周囲の視線がどうも気になって仕方がない。だがそんな私とは対照的に、彼女の声はどんどん大きくなっていった。

 「過去四百年にわたり非白人に対して行われてきた蛮行が、ナチス・ドイツによってヨーロッパ内部で振るわれたとき、彼らはあわててこれを処罰する法律をつくった。しかし、私たちがヨーロッパ諸国による奴隷制の法的責任を求めると、〈現在の尺度で過去を裁くことはできない〉とか、さらには〈金銭目当てだ〉などと誹謗中傷を浴びせてくるの。そんな理屈が通用すると思う!?」

 三時間半も議論していただろうか。たちまちジュラ山脈の稜線が見えてきた。降りる支度をしようと本に手を伸ばしたところ、不意にギュッと右手をつかまれた。

 「日本人のあなたが過去の植民地支配の問題にとり組むのは希望のもてる話だは、おそらく明日の会議で歓迎されるでしょう。しかし次に私たちが奴隷制に対する補償を求めて壇上にあがると、彼らは牙をむいて反撃してくるに違いないわ。そのことをよくわかった上で発言してちょうだい」

 全世界的な反植民地主義闘争の最前線に自分が投げ込まれてしまったのだということを、私はいまさらのように思い知らされたのである。その晩もまた眠れない夜をすごすことになった。

◆第3号
カヽル試練ナクシテハ・・・・・・

高橋哲哉

 一八九一年一月九日、東京本郷の第一高等中学校で事件が起きた。教育勅語奉読式で、嘱託教員の内村鑑三が、明治天皇の宸署に深々と礼拝することにキリスト者として一瞬「良心の咎め」を覚え、「躊躇」して軽い御辞儀にとどめたところ、これが国家の元首に対する「不敬」に当たるとして、各方面から猛烈な非難を浴び、辞職を余儀なくさせられたのだ。

 わずか三ヶ月の間に「社会的破門」に追い込まれ、激烈な肺炎に罹患し、愛する妻を失った内村は、越後の高田に転地して心身を休め、そこで米国の友人エルフレッド・ストラザースに宛てて手紙を書く。その一節ー

 「僕ハ僕ノ場合ガ人ノ子等ノウチニテ最悪ノモノナリトハ信ゼズ、然ハ、友ヨ、君ハ破レシ家庭、衰ヘシ健康、甚ダシキ誤解、カクマデ愛スル国民ニ依ル迫害、ソレガ一度ニ頭ノ上ニ襲ヒ掛リシ状ニツキ、或ル観念ヲ抱キ得ルナリ、而モ僕ハ理解セザルベカラズ、政治的自由(Lberty)ト信教ノ自由(freedom of conscience)トハ如何ナル国ニ於テモソノ献身セル子等ノ間ニ何カカヽル試練ナクシテハ購ハレザリシコトヲ、・・・・・」(一八九一年七月九日書簡)。

 百年以上もの時がなれた今日、何がどれだけ変わったのか。学校行事での君が代・日の丸の強制は、現代の勅語礼拝とも言える。近年、広島県、久留米市、町田市等の教育委員会が君が代斉唱時の子供たちの声量を問題にしたのは、頭の下げ具合を問題にした内村のケースと本質的に変わらない。

 内村は、事件の前々年に施行された帝国憲法に条件付きで保障された信教の自由が、天皇制国家から臣民「下賜」されたものであることの弱点を直感していた。日本国憲法は、思想・良心の自由と信教の自由を無条件で保障しているが、考えてみれば、これらも、この国の人々(ピープル)が心のそこから欲しいと望み、それらを認めない帝国の体制をみずから否定して獲得したものではない。敗戦の結果、「もたらされた」ものである。

 この国では今も、憲法の民主的諸価値の文字の下に、天皇制の諸装置が「地金」のように存在している。民主的諸価値を本当にこの国に根づかせるためには、そのために「献身せる子等の間に何かかかる試練」が必要なのではないか。強制に抗してピアノ伴奏拒否や不起立を選択し、処分されても闘いつづける教職員は、まさに「かかる試練」を今、現在、生きている人々ではないか。

 内村鑑三は教育勅語礼拝を批判したが、教育勅語の内容自体は受け容れていた。日清戦争時は、後に撤回したものの、日本の「自由政治」「自由宗教」の名の下に「義戦論」を展開した。日本の植民地となった朝鮮に「同情」を、朝鮮のキリスト者に大きな「期待」を抱いていたが、植民地統治そのものを否定することはできなかった。百年後の私たちは、内村が直感した「与えられた自由」の弱さを自覚しつつ、内村の弱点を超え、内村の先に行かなければならない。

◆第4号
一丁字を識らず

李孝徳

現在の日本社会では、かなり珍しいことではないかと思うが、私がしているだけでも親戚に文字の読めない女性が二人いた。二人とも在日朝鮮人の一世で、植民地期と戦後を通じて、日本語でも朝鮮語でも教育を受けることがなかったのである。

一人は大叔母で、早くに両親を亡くした私の母の親代わりだった人である。その大叔母が、ある日、母に連れられて眼鏡店に行った。本人に自覚がなかったらしいのだが、実はかなりの近眼だったのである。視力を調べるために、レンズを何枚も追加できる検査用の眼鏡を装着し、検査表のひらがなを声に出して読むように言われるのだが、大叔母は字が読めないうえに日本語も方言なので、返事に窮して仕方なく薄ら笑いを浮かべる。すると店員は見えないのだと思い、メガネのレンズをどんどん追加していく。母が外で用事をすませて店に戻ると、びっくりするような数のレンズが重ねられた眼鏡を大叔母がかけ、何とも言いようのない困惑した笑いを浮かべて母の方を振り返ったのだという。死ぬまで文字の読めなかった大叔母の、親戚の間で今でも語り草のひどく痛ましい笑い話である。

この大叔母、死してなお親戚を驚かせた。関釜連絡船で韓国に向かう途中、脳溢血で倒れ、そのまま亡くなったのだが、遺品から意味不明の記号がびっしり書きこまれた帳面が見つかったのである。商売の取引を記録するために自ら考案した記号らしいのだが、結局誰もそれを解読できなかった。しかし何とも皮肉なことに、この誰も読めない帳面だけが、彼女自らが残した唯一の記録なのである。

もう一人は、少々遠縁の、六十歳を超える伯母である。彼女も読み書きができなかったのだが、家族を含めてまわりはずっと知らなかったのである!ただ彼女は敗戦後、朝鮮人がつくった民族学校に一時期通学したことがある。それまで望んでも行けなかった、生まれて初めての学校は本当に楽しかったらしい。しかし占領期の在日朝鮮人政策の一環で、民族学校の閉鎖令が出され、ある日、学校に行くと門が閉ざされており、赤いバッテンが掲げられていた。楽しかった分だけ衝撃も大きかったのだろう、それ以来、彼女は学校に行くことを一切拒否したのである。

そんな伯母が、最近、文字の読めないことを告白し、夜間中学校で日本語の読み書きを習い始めた。孫が小学校に入って手紙を送って寄こすようになり、それを読み、返事を出すために、六十を過ぎて一念発起したのである。読み書きの勉強が本当に楽しいようで、自転車で毎日学校に生き生きと通っているそうだ。

六十三歳で他界した大叔母の、誰も読めない記号の書かれた帳面と、六十歳を過ぎて読み書きを習い始めた伯母の孫への手紙。学術的資料としての価値はないとしても、しかし一方で、これほど雄弁な歴史的証言もないだろう。植民地主義の暴力と、それに伴う貧困と、それらが重なるが故により苛烈に圧しかかった家父長制の抑圧。私たちが今読み取るべきは、言葉として認められてこなかったこうした言葉の背後にある、「声」を奪われてきたものたちの存在であり、歴史である。