◆◆発言者よりメッセージ◆◆
私は日本の教育を受けて育ち、現在は日本の高校で多くの日本人生徒を相手に「国語」の授業をする教員です。映画『ウリハッキョ』を観て、私は日ごろ自分が携わっている教育について考え込まざるをえませんでした。『ウリハッキョ』は、これまで表面的にしか扱われてこなかった朝鮮学校の姿を内部から描き出していますが、そのことを通して日本国家・社会の歴史と現在を鋭く問うています。教育とはそれだけで成り立つものではなく、背景となる歴史・文化・政治とともにあり、相互に影響しあうものなのだということをあらためて意識させられるのです。
だれもがなんらかの形で関わりを持ち、これからも関わり続ける教育について、『ウリハッキョ』を通してじっくりと考えることができればと考えています。
高和政 (コウ・ファジョン 中央大学附属高校教員。75年生まれ。)
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僕は「ウリハッキョ」という言葉を初めて知りました。それは僕が観た東京・枝川のウリハッキョのドキュメントからでした。ウリハッキョ=私たちの学校、その誕生やその過程、また、なぜそうなったかということを考えると、それを取りまく社会のこと、歴史のことが少しずつみえてきます。つまり、僕たちの問題なのです。
『銀河鉄道の夜』の中にこういう台詞が出てきます。「なあに、うらみやのろいだってこちらじゃ形となってあらわれてくるよ。」三次元現実の投影である四次元空間でのことですが……恐いな。
今回一緒に仕事をする鄭栄桓さんの話の中に“稀有な信頼関係”という言葉があります。少しずつでしょうが、そういう“場”がつくりだせたらと思います。“本当の幸いってなんだろう”と考えることができる、人間の集まりが。
松下重人(まつした・しげと TEE 俳優。1963年生まれ。)
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日本国憲法と在日朝鮮人の関係は、そう友好的なものではない。むしろ日本国憲法のいくつかの条文と、それを根拠とするいくつかの法律は、朝鮮人の窮状を放置する機能を果たした。戦後、日本国民は自らの憲法を手にしたが、在日朝鮮人は相変わらず〈異法〉の領域に放置されたのだ。繰り返し言われ、そして、繰り返し黙殺されてきていることだが、日本における憲法の歴史は、こうした〈外がわ〉を内に抱え続けた歴史なのである。
映画『ウリハッキョ』に映し出された朝鮮学校もまた、戦後も憲法の〈外がわ〉を生き続けてきた存在だということ――つまり「ウリハッキョ」の〈ウリ(私たち)〉は日本国憲法とは別の世界で創り出されたということを、この映画を観る者は忘れてはならない。
鄭栄桓(チョン・ヨンファン 在日朝鮮人運動史。論文「『解放』直後在日朝鮮人運動と参政権問題」。論考「戦時下の神戸・1948年」『前夜』3号。80年生まれ。)
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