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「知識人」になること
高和政
昨年九月二四日に急逝したエドワード・W・サイードは、「知識人」の「責務」について次のように言っていた。
「したがって知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものとしてとらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験とむすびつけることである。(中略)
知識人は、集団的愚行が大手をふってまかりとおるときには、断固これに反対の声をあげるべきであって、それにともなう犠牲を恐れてはいけないのである。」
(『知識人とは何か』平凡社ライブラリー、1998年、83~84頁)
ここで言われている「責務」を果すような大「知識人」などもはや存在しえない、といった反応がすぐさま聞えてきそうだ。しかし、現在のような「集団的愚行が大手をふってまかりとおるとき」に、えらい「知識人」がいないことを嘆いていても意味がないだろう。ここでサイードが述べていることは、今まさに求められているのである。「知識人」がいないのならば、ひとりひとりが「知識人」になるより他にないのでは_覆い__br> いたるところに存在する「危機」・「苦難」のそれぞれの実態を見つめ、その歴史性・同時代性をともに明らかにして「他の苦難の経験とむすびつけ」、「集団的愚行」が重ねられている現状に対して「反対の声」をあげていくこと。創刊される季刊『前夜』は、現在の日本社会において圧倒的に不足しているこの作業の一つの拠点となるだろう。そして、この作業をおこなっていくことを通して、ひとりでも多くの人が「知識人」になることが必要だと考えている。
(コウ・ファジョン)
1975年大阪生まれ。日本語文学。論文「『魂』の声を聴け、語れ−目取真俊『面影と連れて』という暴力」 |